コラム

しなやかなクレド(credo)

これまでどれだけの人が証言台の前に立ったのだろう。 証人は、法廷で、裁判所が用意した宣誓書を朗読して、良心に従って本当のことを述べる旨を誓う。 しかし、すべての証人が真実を供述するわけではない。 証人Xが「Aである」と証言し、証人Yが「Aでない」と証言することがある。 端から宣誓を守るつもり がないようにみえる人たちもいる。

自分を規律するために、あえて言葉にするということがある。人の意思は弱い。 ルールや指針を持たない行動は、 状況に押し流され、その場かぎりでの不安定な結果をもたらすおそれがある。 だから、言葉を外部に定立し、自らを他律していく。医術の世界では、ヒポクラテスの誓いという有名なものがある。 誓いというほど大仰なものではなくても、 だれでも仕事をするうえで大切しているものがあるはずだ。 わたしは、つぎの3つを大事にしようとおもう。

まず、「この人がこの人であって、ほかの誰でもない」ということの大切さを出発点として、 「ことば」でたたかうということだ。 「この人」の「この事件」を、暴力ではなくて「ことば」で解決する。 そのための技術やつよい気持ちを大切にしたい。
つぎに、さまざまな衡平や正義の感覚を掬いあげて、具体的事件の解決を導く感度だ。 多様な価値や原理が交錯・対立している中で、 一義的な解を求めることは難しい。 当事者に寄り添い、直面している問題を解決するなかで、正義が実を結ぶのであればいい。
最後に、連綿と受け継がれている法の叡智にかかわっているという歴史感覚を忘れないようにしたい。 人間の惹き起こす紛争の様相は、 古来おおきく変わっていないのではないか。 歴史の地層には叡智の鉱脈があり、解決への道筋を照らしているのかも知れないのだ。

着実に仕事をしていくためには、変転する状況に振り回されず、逆境にも耐えうる拠り所が必要だとおもう。 ただ、石に刻みつけるのは人生の終でいい。 経験を重ねながら、つねに改訂していくというしなやかさも併せもちたい。

(2012年6月21日)

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